西久松綾(日本画)
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《西久松》
僕は絵というものは手段であって、論文としての絵画を研究、追求してるんですね。小さい頃からやってきた絵、絵画という手法に、研究論文として凝縮して、視覚的に表現するっていうことをやっていて。
富岡鉄斎は、自分自身のことを絵描きとは言わなかった。
研究者だっていうふうに言ってたと。あの富岡先生と同じような考えを持ってやってるんやねっていうことで、まあ、今回推薦していただいたという形になるんですけれども。
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《山城河床曼荼羅》2023 日本画、膠、墨、岩絵具、麻紙 116.7×116.7㎝
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《西久松》
《山城河床曼荼羅》を例に挙げて解説しますと、曼荼羅の構図になっています。
絵画的にどうかというところは、見ていただいた方が、自由に受け取っていただいたらいいかなと思うんですけども、こだわってやっているのは、これは山城ですので、京都の鴨川や、亀岡の保津川に住んでいる生物を描いているということですね。自分でフィールドワークをして魚を捕ってきて、それを全部自分で飼育しながら、その生物の生態を研究観察してるんですけども、そういったものに物語や、その土地土地の伝説みたいなものとかを組み合わせながら、1つの論文としての絵画っていうものを作り上げていきます。
《林》
西久松さん、この絵を描くのにご自身でこういう魚とか、生き物を飼って、飼育されているということで、何匹ぐらいですか? 相当な数?
《西久松》
何匹っていうのは数えてはないんですけど、水槽が4つあって、農家が野菜を洗うような、あの盥に大きなナマズが1匹います。
《林》
それは有名な伊藤若冲が、ニワトリを飼って、絵を描くためにいっぱい飼ってたという。
《西久松》
まさにそういう感じですね。 はい。
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《重野》
ああ、海の魚を絵に描いてあるものって、なんかやっぱり魚拓的なというか、川魚、淡水の魚とか、生物とは意味合いがだいぶ違うなと思ったんですよね。
すごい新鮮でした。
《西久松》
海の魚で、僕は好きな絵があって、川端龍子の海の魚の絵があるんですけど、あれは結構なんというかな。
あんまり魚拓的な感じじゃないというか、うん、あれは絵画として成立してしてるなと思うんですけど。
《重野》
その水面に流れている感じとかフナとか鯉とか、よくありますけど、海の中で泳いでるっていうと、なんか想像の世界になりますよね。 海の、
《西久松》
そうですね。 まあ、僕はフィールドワークを絶対しなきゃいけなくて。
本当に首まで水につかって、その魚の生態を観察して追っかけてずっとやってたりするんですけど、僕は海が嫌いなんですよね。
ベタベタするしで、僕はバイクに乗るのが趣味なんですけど、バイク、潮風でさびるし。 恵みを沢山いただきながらも、あまり海が好きじゃないんですよね。
《林》
ああ、そうよくね深海魚なんて幻想絵画のモチーフになりやすいですけども、それは全然もう違い。
《西久松》
やっぱりね、見ないと駄目なんですよ。 見たり体感しないと、やっぱりなんかこう研究にならないっていうか。
《林》
それで実際飼って飼育して、
《西久松》
そうなんですよね。
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重野克明(銅版画家)
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《重野》
普段は銅版画を中心に制作をしているんですけど、墨を使って絵を描くこともとても多くて、特に写生が大好きなんですね。写生をする時に墨と硯を持って出かけるんですよ。
そうすると、こう画家になったような気分になって、自分1人になれるというか、集中できるんですね。
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《イベント》2025 墨、和紙 8.3×38.2㎝
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《重野》
で、その時になぜ墨を使うかというと、僕は色があんまり得意じゃなくて、色彩にそこまで興味がないんですよね。白黒のトーンとか質感とか色味に興味があって、あと和紙が好きなんですよ。
銅版画では和紙を使うので、和紙が好きでたくさんあるんですね。
やっぱりそうすると自然と何か墨で描いてみたくなるということで墨をよく使ってるんです。
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《吉ざわさん》 2025 墨、和紙 47.5×51.0㎝
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《重野》
これなんか実際にモデルさんがいて、ちょっとポーズを取ってもらって描いたものなんですけど、いわゆる写生で短時間で書いたんですけど。
ものの30秒ぐらいですよね。 墨ってそういうちょっとした、一瞬で捉えるようなことができるので、そういうところも好きですよね。
色なんか入ってくると色に惑わされて、なかなか僕は描けないんですけど。
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《星屑のステージ》2025 鉛筆、墨、陶片
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《重野》
昔の水墨画とかは目指してなくて、洋画家が見よう見まねで日本画を、墨を使ったとか、昔、ヨーロッパの絵が入ってきた時に、日本画家の人が見ようまねで洋画を描いたような意識で
やってます。これは《星屑のステージ》っていうタイトルで。 アトリエにあった日の目を見なかった星屑たちを集めたようなものですね。
墨絵だとか、版画だとか、陶芸のかけらだとか、そういうものが詰まってます。 あと、手製本なんかもよく作るんですよ。
《林》
ストーリーをこう言葉にして書いたりもするわけですか。
《重野》
言葉から考えたりもしますね。 タイトルを先に考えて作ることもありますけど、それは版画の時にそうしますね。 版画は絵ではないと思ってるんで。
作業も多いですし。
銅版は銅版。版画家の心にならなきゃいけないんで、そういう時は、結構言葉とか歌のタイトルとか、そういうところからイメージを広げたりして。
《林》
それからちょっとお話を伺ったら、大変な野球好きで、高校時代までは野球選手としてやっていこうかなと思われて、野球校に進学されたと。
いや、文人というのは多芸多才。柳里恭なんて人はですね。16の分野において秀で、先生になった。16っていっても武術もあればも文化文芸もある。それから絵もあるということですね。
《重野》
そんなにいろいろやってるようなつもりじゃないんですよね。
陶芸をやるんですけど、陶芸でも、いろいろやってるつもりじゃない。すべてつながるようなそのイメージなので。ただ銅版画家って名乗りたいのはやっぱり、版画が一番好きだっていうのもあるんですね。
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染谷悠子(現代美術家)
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《染谷》
私は小さい頃に父の本棚を見るのが好きで、父は山登りが趣味で、山に登った際に小さいスケッチブックに花を描いて、ちょっとした言葉が添えてあったり、その花の名前が書いてあったり、それを見て、ああ、私も絵描いてみたいなっていうところが、多分一番初めの絵が好きになるきっかけだったんですよね。そこから絵をずっと描いていって、私も美大で絵と言ったら油絵なんだろうなっていう。
もう単純なこの流れで、私も油絵科に入ったんですけど。鉛筆で描くのがすごく好きだったので、絵の具と鉛筆で描いてる時が結構長くて、文字を書くように鉛筆で描いていますと言ってたんですね。
それが千葉市美で伊藤若冲を見て、若冲が描く花びらの間の不思議な空間にすごく惹かれまして。 そこから墨を自分で持つようになっていろんなこう。
研究しながら絵を描いて今に至ります。
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《コウモリはどこにいる》2023 パネルにキャンバス、墨、水彩、鉛筆、和紙 69.2 x 82.0㎝
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《林》
今日出てる作品は、ふわっとした感じの、色がとても表情豊かでなんか全体的にこう水蒸気が立ち込めているようなような印象で。山を割合モチーフにされているそうですね。
《染谷》
ほんとそれは最近で、この4月から岡山県の周りが山に囲まれているようなところに移住したんですけれども、数年前からちょこちょこその移住先のところに2、3週間まとめて滞在するようになってから、パッと見ると、常に山が目に入っていて。山がいつもそばにあるっていう状態が初めてだったので。
本当に毎日変わるし、水蒸気がモアモアしてる日もあれば、雨の後はすごい生命の匂いが降りてくるっていうか、風に乗って良い匂いの時もあれば、こう生臭いというか、五感をすべて刺激されるというか、まあ一番は視覚ですけど。今、子供が小学校1年生で集団登校なので、1年生の親はなるべくこう見守りで後ろをついてってくださいって言われて、私、頑張って朝早起きして行ってるんですけど、その時にやっぱり毎日山見ながら歩くんですよ。
ああ、良い山だね、今日は山の色がちょっと違うねぇ、ああだねこうだねって歩きながら言うんですけど、こども達からの応答はないので独り言の様に。
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薄曇りの空のカペラ 2024 パネルにキャンバス、墨、水彩、アクリル絵具、リトグラフインク 135.0 x 180.0 cm
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《染谷》
《薄曇りの空のカペラ》一美星町っていう、夜になると、町全体でこう光源制限みたいな、町を挙げて、星の里、星の町にしてるところの天文台へ行った時に、
たまたま曇り空の日だったんですね。天文台のスタッフの人は、もうすごく申し訳なさそうにカペラ一等星、十字にピカッと光って綺麗な星が今日は曇っているからうまく見えないと思うと先に説明してくれたんですけど。
私はむしろすごくこの薄曇りの雲の多分蒸気とかの関係ですかね?
普段は十字の光でピカッと見えるところを、しゅわしゅわしてたり、ぼーっとしてたり、普段見れない姿が見れて、すごく感動したので、その時のことを描きました。
《林》
いやこの絵を見て、俳句の季語に「山笑ふ」っていうのがあるんですけどね。なんかね、そういうほんわかした感じがあって。岡山に住まれて、ますます山との縁が深くなっていって、そのね、これからまた絵の世界も進んでいくのではないでしょうか。
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後藤理絵(詩人・書家)
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《後藤》
小学生の頃、書道塾に通って書を書くのはすごく好きだったんです。けれども大人になるにつれ、書は置いてきぼりになっていったんですね。
父が亡くなって遺品整理をしていると書の道具がたくさん出てきたので、もう一度やってみようかなって思いました。これが書を再開するきっかけになり師範をとりました。文房四宝のなかでも特に筆は人間が発明したもので、大学院での研究のなかで一番注目していた「道具」です。
一方で、書の歴史を知れば知るほど、五言絶句や篆刻のなかで「漢詩」と出合うことも多かったので、自分の書いている詩や言葉などと、書(筆による手書き文字)との接点を模索するようになりました。それが今の作品にあらわれてきたのかもしれません。
あるとき習っている先生に「自由にやったらいい」という言葉をもらったりもして、例えば紙を貼り付けるなんていうのは書家はあまりやらないことだと思うんですが、料紙をイメージして出してみたときに、面白いという反応もあり、紙の性質の違いで出てくる、貼った時の糊とのかかわり方とか、またその境目を筆で追うことだとか、そういう試みが楽しくなっていって金の加工紙、金箔を使ってみることもときどき取り入れています。また、文房四宝の一つである「墨」についても経年のものが紙に滲んでいく姿も時の経過が見られる興味深いものです。煤と膠が水に溶ける、溶けないなどそれぞれの化学反応が見られます。
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梅と魂(右) 梅と魂(中央) 梅と魂(左)2025 雁皮紙、油煙墨、青墨 すべて136×34.8㎝
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《後藤》
一番新しい作品です。
これは以前「梅と魂」というタイトルの詩を書いたものを書として試みたものです。まずは構図を考えることから始めています。空間を決めて、そして小さな文字を書いていく。積み重ね、大きな植物の筆跡との関わりができていきます。最初の段階では大胆に。極細の筆や中峰の筆で作業を重ねています。いくつかの作業段階はありますので、書の臨書のように一気には書き上がらず時間を重ね、自分の目ではそこに深さを作っているという意識があります。そういうわけで、ときには墨を使い分けます。植物の硬い穂先が和紙の表面を掻き取ってしまうので、そこは道具と道具の対峙があって、わたしの手は運動で摩擦を起こして、なんというか、参加させてもらっている、というような印象です。
この詩は、ある年の暮れに亡くなった祖母のことを思い出し梅の姿に彼女を重ねて書いています。いろいろなものを(種として)私に食事をしてくれたり、料理や匙加減、タイミングなどを教えてくれたり、そのほかたくさんのものをもらいました。ある意味、彼女への鎮魂歌でもあります。
「(略)喉の乾きに気づいてしまって/また水を飲んで後悔する」
「(略)陽の光に反応して/染められていく自分を受け入れて
そして縮んで干からびていくのを/ひたすら受け入れて/皮を種に寄せていくのだ/近づく秋を/なるべく遠くに追いやって」(2017年・「妃19号」抜粋)。
太陽を浴び実は縮んでいく。その姿はぎゅっとエキスを凝縮していき、種に魂を込めていく、というようなイメージを映したつもりです。
さきほど、お客さまとこの作品の前でお話しし「これは白梅ですか? 紅梅ですか?」
っていう質問をいただいたんですけど少し考えて「やっぱり紅いほうですね」と答えました。この作は、書き上げてからまだ時間がそう経ってないのでやっと引いて見ることができた気がします。この気づきはありがたいことです。「紅い」といっても、まあ私は墨の色の濃淡でここに表しているわけですから。
わたしの回答に「やっぱりそうだと思った。枝ぶりが紅梅よね」といわれたお客さまのように、想像していただけたらそれは一番うれしいなと思います。
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《Voix》 2024 雁皮紙厚口、雁皮紙薄口、油煙墨、青墨 35×51.0㎝
詩:吉増剛造
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《後藤》
こちらは吉増詩を書きつづけ、作品として一番最初に表装したものです。
吉増さんが「吉本隆明の言葉を追いかけてずっと臨書してる」「ずっと書き続けてる」というのをパフォーマンスや登壇のなかで何度か直接聞いたんですよね。
それでこんどはわたしが吉増剛造の言葉を書いてみよう! と、吉増さんに許可をいただき書でかくことを始めたんですよ。
最初は「剥き出しの野の花」から始めました。もう結構みっちりみっちり書いて、まるで吉増さんが憑依したように書いてみようと思って、和紙が埋まるほど、ぎっちり書いていたんです。その後しばらくして「VOIX」を吉増さんが上梓されたので、そこから今度は、全文を書き終えました。突っかかりはみっちりだったのに今度は引いて書いてみようと。吉増さんがこの詩の中で、ここが一番言いたかったんじゃないだろうか、などと想像した箇所を拾う……それはもちろん私の解釈なんですけれども、何度も書いているうちに自分の解釈を入れたくなったっていうような……。そういう過程がこの作業がひとつ終わりました。もう一つの「熱風」の作品もそうです。
もともとは、自作詩というものにずっと照れや恥ずかしさがありました。だからそれをそのまま書の作品なんかにするのはできませんでした。なので、吉増詩を書くことは苦しくもありますが、多くの発見がありました。
吉増さんのパフォーマンスを、私は20年以上前からときどき生やビデオなどで拝見していました。銅板を叩いたことや稲妻のように鋭い声を発されたときも、生のもの、リアルのものとして、私の胸に受け止めた光景や印象が、この手に結びついていると感じます。たまたま、この、今という時間の中で感じることができる、吉増さんの肉声や身体的な動き。その空気の振動などを感じられること。だから吉増さんの多くの言葉に、とても感謝しています。
《林》
出身が後藤さん、足利なんですよね。 で、実は足利という町は文人画の伝統があるんですよね。 お父さんは書の先生。教師後に書道を教えられて。
《後藤》
ええ、教師をし、退職後に生徒さんを集めて書を公民館や自宅で教えてました。
《林》
田崎草雲、 この人が足利画壇の第一人者で、彼が実は(浜口家ゆかりの)小室翠雲の先生なんですよ。
出身が館林でしたからね、後藤さんはオーセンティックな日本の南画の伝統に汲んでいるというか、そうさせてるところあるんですよね。あなた自身が詩を書くしね、詩、書、画。また後藤さん、以前は俳優もやってたんですね。だからもう多芸多才、今回で出した書は本当になんかこう急進的にぐっと来てますね。
デーモンのようなものを感じます。
《後藤》
足利の画壇についての歴史は詳しくなくて、林さんに伺い驚きました。去年、足利市美術館で初めて足利出身の田崎早雲らの作品を見て、その深さ、重み、などを直接体感することができました。機会がありましたら皆さんにもぜひご覧になっていただきたいです。
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顧問:林浩平先生
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《林》
はい、どうもありがとうございました。
えっと、お話をもうひとつちょっと。江戸の文人は、抹茶ではなくて煎茶、煎茶に凝ったんです。 みんな煎茶をガブガブ飲んで、いろんな社交の場を作った。
そういう意味で文人の世界と煎茶道っていうのは密接に結びついているんですね。
売茶翁なんていう、お茶をかついで売るおじさんがいまして、その人はね、実際は偉いお坊さんではあったんだけども、お茶を担ぐグッズを作って、京都の街を煎茶を売って歩いたんです。
道端で即売して、煎茶ですから一杯が安いですね。
そういうふうにして煎茶を流行らせた。大体、上田秋成も書いてます。「煎茶のんで、死をきわめている事しや」(『小心録』)。文人がみんな煎茶飲んでるから、文人の社会の交わりには煎茶っていう道具が欠かせなかった、ということで、今日はなんか煎茶を用意してくださってるんですか?
どうぞ皆さん召し上がってください。
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