1*ルーツは「醤」2*しょうゆの誕生3*しょうゆの商品化4*しょうゆの発達5*しょうゆの裏ばなし
 
3*しょうゆの商品化

織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代は、町人を中心とする貨幣経済が発達し、物資の流通も活発化してきた為、しょうゆも徐々に庶民に普及するようになりました。この需要の増大に対応して、16世紀後半から17世紀半ばにかけて、しょうゆの手工業的生産が始まります。紀州湯浅、播州竜野、下総銚子・野田などの地域で、それぞれしょうゆ醸造が開始されるようになりました。

江戸時代でも初期の頃は、政治の中心は江戸に移ったといっても、文化の中心はまだまだ上方(京都・大阪地方)。しょうゆの産地も上方が中心でした。特に泉州境で酒とともに作られていた「醤油溜(しょうゆだまり)」は評判が高く、元禄のころは名産品として諸国に流通していたと見られます。
17世紀から18世紀にかけて、大阪、ついで江戸が大市場として成長してきます。すでに菱垣廻船や樽廻船という定期船が大阪と江戸を結び、評判の高い上方のしょうゆも江戸に運ばれ、「下りしょうゆ」として名声を博しました。この頃はしょうゆに限らず、酒でも菓子でも上方から下ってくる「下りもの」は高級品、江戸周辺の産物は「下らない」もの、つまり下級品ということになっていました。

京都・大阪では、18世紀も半ばを過ぎると、他国のしょうゆが入りはじめ、京都・大阪のしょうゆ醸造業は衰退していきます。これ以後、関西のしょうゆ市場は竜野を中心に、紀州湯浅、小豆島の醸造業者が支えていくことになります。
一方、江戸においては、「下りしょうゆ」の割合が落ちて、近郊の地廻りしょうゆが爆発的に勢力を伸ばしていきます。関東地廻りしょうゆの中心的産地は、銚子、野田、そして土浦でした。このうち銚子では宝暦四年(1754)、野田では天明元年(1781)にそれぞれ造醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に増加させていきます。

江戸において、下りしょうゆが影をひそめ、関東地廻りしょうゆが勢力を伸ばしていった背景には、利根川や江戸川の水運を利用した地の利の良さと、霞ケ浦周辺の大豆や筑波の小麦といった質の良い原料生産地に近い為、高品質の「しょうゆ」が提供できたことがあげられるでしょう。そしてさらには、小麦を多用した香り高い「こいくちしょうゆ」が、新鮮な「江戸前」の魚介類の調理にピッタリで、上方文化の伝統を離れて江戸独自の食文化を形成しつつあった、江戸の人々の支持を得たことが大きな要因ともなったのです。しかし世間的評価の点では、依然、下りしょうゆが長年の名声を保ち、「極上しょうゆ」として最上位にランクされ、地廻りしょうゆはいま一歩低く見られる傾向がありました。

ところが、江戸も末期の元治元年(1864)、名実共に「地廻りしょうゆ」が「下りしょうゆ」の上に立つ出来事が起きます。この年、幕府はインフレを抑えるため、諸商人に現行の3〜4割の価格引き下げを厳命します。銚子と野田のしょうゆ醸造家は、「しょうゆは品質を落としたり、量をごまかしたりできないので、値を下げれば経営できなくなってしまう。」と申し立てたところ、幕府は「もっともだ!」として、「次のものは品質が特に優良なので“最上しょうゆ”として、特別に値下げをするに及ばず。」と、現行価格で販売することが許可されたのです。この恩恵に浴したのは、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサ、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウの七銘柄だけでした。
銚子と野田の造醤油業者はこれで力を得、「関西が極上なら関東はその上を行く最上!」が絶好の宣伝文句になり、以後、関東こいくちしょうゆが全国の市場を制覇していくことになるのです。
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