浜口さんは、戦後になってもう1度フランスにいかれました。そこで、まったくの偶然から貴重な出会いがありました。パリに着くとすぐ、戦前住んでいたモンパルナスに宿をとり、荷物を置くと、昔懐かしい街へ出かけていきました。「クポール」という魚料理のおいしい、有名なレストランで食事をするためです。
　そうしますと、昔から馴染みのご婦人方が、「ああ、ハマグチだ。よく来た、ここへいらっしゃい」と言って、一緒のテーブルで楽しく食事をはじめたわけです。その時、偶々浜口さんの呼ばれたテーブルの隣に男の人がおりました。その人もご婦人方とは知り合いの間柄で、「ムッシュ・ハマグチ、この人はパリで画廊をやっているベルグリューンという人だ」という紹介をしてくれたのです。
　ハンス・ベルグリューンは有名な画廊主なのですが、当時は版画に関心を持っておりました。浜口さんが版画を製作していると知ると、ぜひ自分に作品を見せてくれと言われました。そこで急いで1点つくり、刷り上がったものをインクが乾くか乾かないうちに、彼の許へ持っていきました。1954年1月のことです。
　ベルグリューンは作品をすごく気に入り、ぜひ自分の画廊のために刷ってほしいと言われたのが、この《スペイン風油入れ》という作品です。
　これは非常に幸運なことです。普通はよい画廊と契約を結ぶのは大変難しいことで、どの画廊と契約をするかは、ある意味で、その後の創作活動にも大きく影響します。その点、浜口先生は非常に恵まれたと思います。

　銅版画という技術は、ヨーロッパでは歴史的な伝統があるわけですが、かつては絵の複製や本の挿絵などに用いられるのが主で、独立した作品となるのはそれほど昔のことではありません。もっともレンブラントなどは油絵の大作以外にも、沢山の銅版画をつくっておりますけれども‥
　浜口さんの「パリの屋根」という作品があそこにありますが、あれはカラーメゾチントといって、黄色、青、赤の色の三原色と黒の版をつくり、それを重ねることによって、あれほど見事で微妙な色を出しているのです。このカラーメゾチントという独特の世界を創りあげたのは間違いなく浜口陽三先生です。
　私との対談の中で浜口さんは、ビエンナーレや展覧会で色々と賞をもらったが、自分にとって一番うれしかったのは、イギリスから出ている『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にメゾチントの項があり、そこの20世紀のところに、「この技法を現在非常に優れたかたちで作品にしているのは、パリに住んでいる浜口陽三だ」と書かれてあることだ、と語っています。世界の代表的な百科事典が認めたことを、浜口先生は非常に喜んでおられました。『エンサイクロペディア・ブリタニカ』が、作品の写真入りで載せてくれたことを、勲章だと思うと仰っていました。そのくらい、浜口作品とりわけカラーメゾチントの作品は、本当に世界に冠たるものです。

　もう一人、お話したい人がいます。浜口さんと対談した直後に、2度目の駐在のためにパリへ行ったのですが、そのときに出会ったアンリ・カルティエ＝ブレッソンという写真家です。
　カルティエ＝ブレッソンは、浜口先生より2歳上の1907年生まれで、2002年に亡くなりました。お二人とも長寿を全うされました。

　1988年12月、カルティエ・ブレッソンから自宅で会ってもいい、という連絡が参りました。リヴォリ通りのアパルトマンの呼び鈴を押します、背の高い人がドアを開けてくれました。それがカルティエ＝ブレッソン本人でした。
　玄関を入ったところに丸テーブルが一つ、さらに本棚があって、反対側には電話がのっている小さなテーブルがありました。丸テーブルと本棚は全部画集で埋まっておりました。彼は大変絵が好きな人だったのです。若い時、写真家になる前には画家を目指していたのです。
　この対面の後で何回かやりとりがあり、彼と写真作品に関するドキュメンタリーを作るのを承諾してくれました。写真家は顔を知られては警戒されるので、カメラの前に姿はさらさないというのが彼の信条でしたから、テレビで取材することができれば大スクープです。しかし、一週間も経たないうちに、彼から電話がかかってまいりまして、「条件がある」というのです。「君たちはビデオカメラで仕事をしているけれど、現在のビデオではまだ白黒のコントラストがきちっと出ない。とくに黒の色が出ない。だから、私の顔はどうでもいいのだが、写真を撮るには映画用の35mmのフィルムのキャメラで撮ること、それが条件だ」というのです。すぐ東京のＮＨＫに電話をしましたが、1週間前に35ミリカメラはすべて廃棄したといことでした。つまり1988年の段階で、フィルムで撮影する時代は終わっていたのですね。結局、その時はカルティエ＝ブレッソンに関するドキュメンタリー番組を作ることは断念せざるを得ませんでした。

　しかしそれから11年後の1999年に、カルティエ＝ブレッソンからNHKで番組をつくってもよいという話があり、インタビュアー役をすることになりました。懐かしいリヴォリ通りの家にいきますと、自宅の1階上に事務所があり、彼はそこでインタビューを受けてくれました。目の前に、それまで撮った写真や、当時専念していたデッサンなどが用意されていました。
　インタビューは1時間以上におよびました。このインタビューと彼の代表的な写真を組み合わせた番組は、NHK教育テレビで、『写真とともに生きた二十世紀――アンリ・カルティエ＝ブレッソン九一歳の証言』として放送されました。
　インタビューの中で、カルティエ＝ブレッソンは、最後にこういうことを言いました。「一番大事なことは自由だ」と。自由であることのために、自分はあらゆる努力をしてきた。経済的基盤がなければ、生活の自由を守ることができないから、そのために一生懸命仕事をした。自分は自由でありたいし、人の自由も尊重する。「自分はアナーキストであり、これが秘密だ」、「アナーキーというのは無秩序ではない。それは誤用であって、高度の秩序を意味する。絶対的自由主義というべきだ」と言いました。
　彼は筋金入りの自由人でした。インタビューを通して強く感じたのは、あらゆる束縛、あらゆる既成概念から自由でありたいという彼の強烈な意志でした。

　浜口さんも、まさにそうした信念の持ち主だったと思います。創作の上で、あるいは実生活の上で、自由であるということをとっても大切になさっていたと思います。
　私が専門とする文学の世界では、作品は一度作者の手を離れてしまえば、それはもう作品として独立したものであって、そこに作者がどう生きてきたのか、作者が何を考えていたのかを考慮する必要はない。作品それ自体を分析するのが研究の本道だという考え方があります。だが私はそうではないと思います。作品はそれを生み出してきた人、その生き様、生き方、思想と分かち難く結びついているのです。浜口陽三氏がそうであり、カルティエ＝ブレッソンがそうです。そして今日は時間がなくてお話しできませんでしたが、《ゲルニカ》をつくったピカソの場合がそうであったと思います。
　偉大なる先達から私が教えられたのは、そのことです。

--------------------------------　2012年10月6日　　会場：ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション