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  • 地元で愛されるがめ煮は、究極の「地産地消」

    インタビュー

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    その風変わりな名前の由来

     福岡県発祥の郷土料理、筑前煮。いまでは和食の定番メニューとして全国的に広がり、多くの地域で学校給食にも用いられています。地元福岡県、佐賀県、大分県(日田市など)、長崎県の一部(大村市)では、古くから正月料理として、また大切な客人をもてなす一品として親しまれてきました。ただ地元では筑前煮ではなく、少々変わった「がめ煮」という名で呼ばれています。
     その由来のひとつに、豊臣秀吉の時代、朝鮮への出兵で博多に集められた兵たちが、地元の湾でとれたどぶがめ(スッポン)とあり合わせの材料を煮込んだ、ごった煮が起源という説があるようです。現在はどぶがめではなく、主に鶏肉が使われるがめ煮。実際はどのように作られ、地元ではどんな存在であるか、現地で専門家を訪ねました。

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     お話を伺ったのは、郷土料理に詳しい中村学園大学食物栄養学科教授、松隈紀生先生。朝鮮出兵が起源というのは口伝で、どの文献にも記述は残っていないそうです。「がめ煮の由来は、博多弁で何でも寄せ集めるという意味の『がめくり込む』から。もしくは『亀煮』が変化したというのが有力と考えられますね」

    養鶏を奨励した黒田藩

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     当時、博多湾沿岸や河口付近には、「どぶがめ(どうがめ)」と呼ばれたスッポンが、多数生息していました。また東部沿岸では産卵のためにウミガメが浜へと上がり、昔の人々は、それらを地元でとれる根菜とともに、煮て食べていたとされます。
     がめ煮に鶏肉が使われるようになったのは、黒田家の影響のようです。戦国時代〜江戸初期の黒田家の献立には、「焼き鳥」「鶏の煮しめ」など、主に鶉や雉など野鳥料理がありました。筑前(福岡)に入った黒田藩は、江戸期にインド原産の赤鶏を中国経由で輸入。養鶏を奨励し、鶏卵や闘鶏用の鶏を特産品として、江戸へ送っていました。彩り良く栄養豊かなため、黒田藩が戦陣料理に取り入れたという口伝もあります。鶏肉のがめ煮が一般に定着したのは江戸後期から幕末。各家庭でも庭先で鶏を飼育するようになり、そのうち卵を生まなくなった鶏を絞めて食べる事が習慣化したと考えられます。食感が似ているとされる亀と鶏。時代の流れとともに具材が変わり、名前だけが残ったようです。

    江戸から明治、がめ煮から筑前煮

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     鶏肉のほか、がめ煮に欠かせない牛蒡も、福岡では全国トップクラスの消費量を誇ります。鶏肉や牛蒡を使う名物料理に、鶏の水炊き、かしわめし、ごぼう天うどんなどが挙げられます。がめ煮は地域によっては亀でも鶏でもなく、魚も使われました。博多の旧家で、釜屋番(鋳物師)の柴藤家年中行事、秋の祭礼の献立に、「かめ(がめ)煮・ひらす」と記述が残っています。ひらすとはヒラマサのこと。いまでも博多湾沿岸、志賀島など漁場に近い所では、サワラやキハダマグロなどの魚をがめ煮に入れるようです。当地の名産品をふんだんに使い、地元の人々に愛され続ける郷土料理は、まさに究極の「地産地消」ともいえそうです。
     がめ煮が「筑前煮」と呼ばれるようになったのは明治以降。人と物の行き来が自由になった時代に、元筑前藩士たちが各地へ広めたのではないかと先生は語ります。血気盛んで大仰(大げさ)な気質の博多っ子たちが全国を渡り歩き、彼らと一緒に郷土料理も、津々浦々まで知られるようになったのかもしれません。

    松隈紀生先生

    ●取材協力/中村学園大学
    「がめ煮を常備菜にと学生に勧めています」

    中村学園大学食物栄養学科教授
    松隈紀生先生

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