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プロの料理人が読んでいる情報誌

  • 歴史の悲劇から生まれ、愛され続ける祝いの膳

    食材について

    民衆の心をひとつに繋いだ雑煮

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    個性豊かな雑煮は全国に多々ありますが、長崎県島原市の具雑煮ほど、その発祥に歴史が関わっているものも珍しいかもしれません。四世紀近く前の日本を揺るがした島原・天草の乱が、具雑煮誕生のきっかけだったのです。
    宗教一揆として知られるこの乱の発端は、新領主による過重な年貢の取り立てにありました。当地で熾烈を極めたキリシタンの弾圧、さらに飢饉が重なり、民衆を反乱へと駆り立てます。旧領主に仕えていた武士たちが浪人となり、民衆を一揆軍へ組織化したとも言われています。16歳の総大将天草四郎も、彼らにより担ぎだされたと見られています。
    時は1637(寛永14)年12月。島原、天草地方から集まった群衆は約3万7千人。彼らは旧領主でキリシタン大名であった有馬家の居城、原城に籠城しました。その際、日持ちのする餅が運び込まれ、その餅と原城周辺でとれる山の幸、城下に広がる海の幸を大鍋で煮たのが、具雑煮の始まりです。原城跡には女性と子どもが暮らした場所がありますが、火を使った形跡が見つかっていません。3万7千人の食を用意するのに、城内でかまどは一カ所だけ。火の元を制限することで敵の攻撃から身を守るのはもちろん、一つ鍋の具雑煮を皆で食べたことで、一揆軍は団結し士気を挙げたのだろうと語られています。

    湧水と地元食材が織りなす元祖の味

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    時を経て1813(文化10)年、糀屋善衛ェ門が味付けに趣向を凝らした具雑煮を考案。二代目が屋号を「姫松屋」とし、具雑煮の元祖として、現在も六代目姫田英治さん、七代目誠さん親子がのれんを守っています。創業時から、具材は地元産にこだわった 種類。島原、長崎地方の野菜・シロナ(または白菜)、ごぼう、レンコン、凍り豆腐、ちくわ、白かまぼこ、浪速かまぼこ、椎茸、焼き穴子、卵焼き、鶏肉の順に、一人用の土鍋に入れてひと煮立ち。地元のもち米で作った自家製の餅を加え、最後に春菊(または三つ葉)を飾ります。本店の地下から出る湧水、かつお節、しょうゆを合わせて一晩寝かせるつゆはまろやかで、外国人観光客にも好評です。
    誠さんは子どもの頃「なぜ他の地方では、具雑煮のことをお雑煮と呼ぶのだろう?」と不思議だったそうです。それほど具雑煮は生活に根ざしたもの。出前もよく利用され、正月以外の日に雑煮を食べる習慣があるのも、島原ならでは。やさしい味は酒宴の〆にもよく合います。具雑煮で一杯、という常連客もいるそうです。

    だしも具も多種多様でこそ「具雑煮」

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    「具雑煮には定番の型がありません。だしも具も、各家庭で異なるのです」と語るのは、長崎料理研究家の脇山順子さん。
    「乱の鎮圧後、島原は10年ほど住人がいませんでした。後に移民政策がとられ、四国や小豆島などから人が入ってきました」。名物の島原そうめんや”イギリス”という郷土料理も、移民たちが出身地の食文化を持ちこんだもの。具雑煮の味は、その家がどの地方出身かによるのだそうです。
    乱の際に食べられた具雑煮も、当初は餅や粟もあったようですが、後には野草や海藻など、あるものを何でも入れて食べていたのではないか、と脇山さんは推測します。幕府軍が捕らえた逃亡者の胃を開けたところ、海藻しか入っておらず、兵糧が底をついたと見て総攻撃をかけたと言われています。3ヶ月におよぶ籠城はついに幕を引き、天草四郎は自害。一揆軍は老若男女かまわず皆殺しにされ、原城は完全に破壊されました。現在も調査が進んでおり、平成16年の発掘では遺体が数百体も出土しました。当時生まれた具雑煮だけが、人々の思いをのせて島原の郷土料理、正月料理となり、悲しい歴史を物語っているようです。

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