全国へ味を広げたかつお節職人
日本人とかつおの関係は古く、縄文時代からといわれています。かつおが文献に現れるのは、大宝律令(701年)。租庸調が定められ、かつおの素干しである「堅魚」、「煮堅魚」(煮て素干ししたもの)、「堅魚煎汁」(煮堅魚の煮汁を煮つめたもの)が税として納められた記録が残っています。かつお節に近いものが登場したのは室町時代。『四条流包丁書』にかつお加工品を削った「花鰹」の記述があります。そして江戸時代、和歌山県印南町でクヌギや樫の薪を使った燻乾法(焙乾法)が編み出され、荒節の原型(熊野節)が誕生。それが土佐へ伝わり、水分を抜くためにカビ付けをする方法が考案されました。その改良節は長く門外不出でしたが、後に薩摩へ渡り薩摩節に発展。また、印南町の土佐の与市という、当時日本一ともいわれたかつお節職人が千葉の千倉で改良節を伝授後、1801(享和元)年に田子の隣・安良里を訪れました。田子では既に4回のカビ付けが行われていましたが、高名な職人の訪問により、その価値は土佐、薩摩と並び評されるようになったのです。
田子流、手火山式焙乾法
かつて水軍が割拠した西伊豆。平素は漁師町として栄え、特に田子港はかつおの他たくさんの魚が揚がる良港でした。明治から昭和の最盛期には大型漁船が40隻以上あったといいます。江戸時代、かつお節商人がカビ付けの回数を増やす製法を依頼したのはここ、田子の職人でした。「すべて買い取るという問屋との契約があったおかげで、当時の職人は4回以上のカビ付けに挑戦できたのです」とカネサ鰹節商店の芹沢安久氏。ここで田子節を確立した職人たちも、各地へと味を伝えに赴きました。焼津は田子の焙乾法を学び、焼津節を改良させたといいます。
1882(明治15)年創業のカネサ鰹節商店では、昔ながらの手火山式焙乾法で本枯節を生産しています。切って煮熟し、骨抜きをしたかつおをセイロに一本ずつ並べ、深さ2mの室で強火で燻し乾かします。120~130度の火を保つため職人の経験が極めて重要で、これを手火山式焙乾法といいます。

カネサ鰹節商店 五代目
芹沢 安久 氏

樽に貯蔵しカビ付け発酵を繰り返す

手火山式焙乾法
(てびやましきばいかんほう)
この地だから守られた伝統製法

「正月魚(しょうがつよ)」とも呼ばれる潮鰹。船主が船員に一年の雇用を約束する証としてふるまった
また、芹沢氏は江戸時代から田子に伝わり、生産は全国でもここだけというかつおの乾干し塩蔵品「潮鰹」に着目。仲間とともに「西伊豆しおかつお研究会」を発足させ、ご当地グルメの考案など普及活動を行っています。新メニューは「まがい物を作っている」と批難されることもありましたが、活動を続けるうちに、スローフード協会「味の方舟プロジェクト」や農水省「ディスカバー農山漁村の宝」に選ばれ、徐々に認められるようになりました。「伝統秩序を厳しく守ってきた方々がいたからこそ、潮鰹はこの地に文化として残ったのだと思います」と振り返る芹沢氏。伝統の本枯節、そして潮鰹。かつて時代の波に乗ることができず、ただただ昔からの方法で作り続けてきた職人たちがいてこそのいまがあり、未来へと続く道があります。
●取材協力/カネサ鰹節商店