出雲そばを培った歴史と文化
戸隠そば、わんこそばと並ぶ日本三大そばの一つ、出雲そばの誕生は、1638(寛永15)年、松平直政の信州から出雲松江藩への転封がきっかけと考えられています。特に、茶人として名高い七代藩主・治郷(不昧公)が大のそば好きだったため、そば食が発展したとも言われます。三段重の漆器にそばを盛り、薬味とつゆをかける「割子そば」は、松江の趣味人たちが野外で食すため弁当箱を利用したのが始まりです。「釜揚げそば」は、神在月(旧暦10月)に出雲大社で行われる神在祭の際、多くの屋台が温かいそばを参拝者に振る舞ったのが発祥と言われます。茹でたそばを水でしめずにお椀に入れ、茹で汁のそば湯をかけ、さらに上から薬味とつゆをかけていただきます。
出雲そばの中でも、標高の高い奥出雲で育つそばは特に珍重され、かつて江戸幕府への献上品でした。砂鉄を採取する「たたら製鉄」で切り開かれた山肌を利用して、古くからそばが栽培されてきたのです。
在来種が奥出雲で復活するまで
広島との県境に位置する奥出雲町は、仁多米、奥出雲和牛の産地であり、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神話の里です。昼夜の寒暖差が大きく、それがそばのうま味や香りを引き上げる要因になっていました。しかし、次第に育てやすく収穫量の多い改良品種が栽培され、他種と交雑しやすい性質から、在来種は姿を消していきます。
その在来種に再び光が当たったのは、平成15年。過疎と高齢化が進み、町は対応を迫られていました。農家、商工業者、NPOなども集まり一年をかけ検討した結果、「ここにしかない〝そば〞で地域興し」が決定。昔から味に定評のあった小粒の在来種に地域の名を冠して「横田小そば」と名付け、復活プロジェクトが始まります。
奇跡的に農業技術センターに保存されていたわずかな在来種の種から、まず種子を増やす取り組みがなされました。台風や猪の害を受けながらも、三年目に30㎏、翌年には300㎏の収穫に成功。小規模だった畑も徐々に協力農家が増え、平成27年に24haにまで広がっています。

お話を伺った
奥出雲町農業振興課 主任主事
佐々木 聡志 氏


大きさの違いが一目瞭然。横田小そば(上)と信濃(下)
地域で育み守る「横田小そば」

姫のそば ゆかり庵
姫のそば ゆかり庵
若槻 保 氏
朝7時過ぎ。稲田神社の灯りを点した後、その日のそば打ちが始まります。「こんなことまで、普通の店ではしませんよ」と笑いながら粉を篩にかける若槻さん。自社の畑や町内産のそばを自家製粉し、つなぎなしの十割で手打ちします。小そばの実から取れる粉の量は他種とあまり変わらないそうですが、生産量が少ないため費用がかかります。「儲けはありません。ただ、このそばのために広島から車で2時間かけて来られる方もいる。店の回転は悪いけど(笑)、できるだけくつろいでいって欲しいと思いますよ」と若槻さん。
出雲では祝い事や来客、年越しなどの節目節目に、家庭で打ったそばを食べる習慣があります。喉ごしではなく、風味をたのしむ出雲そば。ゆかり庵でいただいた釜揚げそばの香り高く滋味深い味わいに、身も心も芯から温まりました。
●取材協力/奥出雲町農業振興課、姫のそば ゆかり庵、出雲大社